徳川家康(江戸幕府初代征夷大将軍)
生誕:天文11年12月26日(1543年1月31日)
死没:元和2年4月17日(1616年6月1日)
「戦国三英傑」の一人で、人呼んで「東海一の弓取り」である。松平広忠の長男。幼名は竹千代。通称・二郎三郎。松平家は家康の祖父・清康の代に三河一国に覇を唱えて絶頂期を迎えるが、相次ぐ家中の内紛により弱体化が進み、家康は幼い頃から織田信秀・今川義元のもとで人質生活を送っていた。天文18年(1549)父・広忠が没すると若干8歳で家督を相続する。政情不安定の中、松平家は今川家の属国に組み入れられるが、義元は家康を自らの師の太原雪斎を教育係に付けて姪を娶らすなど一門部将として遇し、一千石程を支給したといわれる。
家康は永禄3年(1558)の三河寺部城攻めを初陣に今川家の先鋒として義元も誇る活躍をするが、桶狭間の戦いで後ろ盾の義元を亡くす。松平家所縁の三河大樹寺にて死を計るが、住職の登誉上人の言葉で思い留まり「厭離穢土欣求浄土」の旗印を掲げて、戦乱からの秩序の回復を目指す。今川家からの独立を果たし、義元の偏諱「元」を捨てて元康から家康へ改名。朝廷の許可を得て、三河守の官位と松平から徳川に姓を復する。織田信長に協力して足利将軍家の擁立や天下布武に協力。まず三河国内を統一し、東進して義元の遺子・氏真を降して遠江を攻略。そして西進を図る武田信玄・勝頼と戦うが、苦戦を強いられる。ようやく天正10年(1582)の信長の甲州征伐を機会に駿河を会得。義元と並ぶ三河・遠江・駿河3ヶ国の大守に成長した(約80万石)。
だが、それも束の間の話で、本能寺の変の明智光秀のクーデタにより信長・信忠の父子が急死。織田政権が瓦解すると、堺を観光していた家康は一転して窮地に追い込まれる。生涯最大の危機であったとされ、一時は京都へ斬り死にしようと図った程だが、酒井忠次や本多忠勝の説得で思い留まる。信長の仇討ちこそ中央の豊臣秀吉に先を越されたもの、なんとか帰国に成功し、北条氏直・上杉景勝との三つ巴の戦いを出し抜いて、空白地帯となった甲斐と南信濃を平定。約5ヶ国の大守に成長する(約140万石)。
本能寺から2年後の同12年(1584)信長の遺子・信雄を担いで、天下人を目指して驀進する秀吉と対決。中国地方から関東地方まで広範囲に渡って注目した「小牧長久手の戦い、小牧の役」である。北陸の佐々や姉小路、南国の紀州雑賀・根来衆と畠山、四国の長宗我部を味方に着けた信雄・家康の連合軍は善戦したが、秀吉方との動員力の差(石高でいえば、秀吉勢力は600万石を越えていたと思われる)の埋め合わせをするには至らず、戦況は膠着状態となる。結局、秀吉が武力討伐を諦めて熱心に和睦を呼びかけたため、家康らも矛を収めた。信長の同盟者だった経歴に加えてこの時の善戦は後々の財産となり、所領を削られることはなかった(信雄は伊賀と伊勢南半分を秀吉に譲った)。
家康は自身の東国における地位を利用して大名に帰属を呼びかけるなど秀吉の国内統一に協力し、総仕上げの小田原征伐には先鋒として活躍した。戦後、遠隔地へ追いやられるとともに東国安定への地位を見込まれ、関八州(うち六カ国が徳川領で約240万石。残る二国は属国)へ移された。政権最大の大大名となる。その後の奥州仕置・朝鮮出兵にも従い、朝鮮出兵では前田利家とともに名護屋で政務を執る。さらに秀吉は、甥の関白・秀次粛正に伴う政権弱体化の緩和策として、有力大名を政権中枢部に組み入れた。彼等は五大老と称され、家康はその筆頭である。秀吉死去直前には孫娘の千姫と秀吉の嫡男・秀頼の婚姻を命じられ、彼の義理祖父としての補佐を頼まれる。政務代行を行うことになったが、時代は風雲急を告げていた。
家康は「秀吉死亡」とともに自分の出番と悟り、秀頼を傀儡とし、政権を握ろうと動き始める。一方で家康を快く思わなかった、秀吉子飼いの吏将・石田三成も動き「天下分け目の関ヶ原」と称される大勝負になったが、家康は勝ちを収めた。アンチ派に勝った家康は3年後に「征夷大将軍」に就任。江戸に幕府を開き、豊臣政権に続く新たな新政権を自ら打ち立てた。家康は政権の基礎を整え、同19年(1614)大坂に残る豊臣家との戦いに臨む。これが「大坂の陣」であり、冬と夏の両陣で家康は結果として完勝し、徳川の天下を手堅いものとする。ここに家康の天下統一戦は成った。外交では朝鮮との関係を修復し(明の福建総督にも通商を求めたが進展無し)ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスとの貿易や東南アジア諸国との朱印船貿易を行なった(しかし、コーチシナ・カンボジア・パタニからは渡航日本人が行なう略奪などで抗議を受けた。これらの国の求めで家康は彼等の帰国を待って処罰しようとしたが、返って帰国してこない。日本町成立の背景ともいわれる)。
戦後、二代将軍・秀忠の名で天下を安定させるべく法令を発布。「一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「寺院諸法度」など。年号も平和な時代の出発を予言するが如く「慶長」から「元和」へ改元させた。これらの法令は「元和令」と呼ばれる。戦いから1年後の元和2年(1616)に死去。晩年は日々「南無阿弥陀仏」と書き綴った。死の直前、太政大臣の官位を贈られる(生前この官位に任じられた武将は平清盛・足利義満・豊臣秀吉に続いて四人目である)。最期まで西国大名の向背を案じていたが、遺志は次代が引き継ぎ、秀忠と三代将軍・家光の代で徳川の天下は安定。250余年の平和を実現した。家康も「東照大権現」の神号(日出づる国の神「日ノ本大権現」になる観測もあった)を賜って神となり、「神君家康公」などと崇められ、全国の東照社は五百を越えたといわれる。その終わりに伴う反動も大きく「古狸(狸親父)」として後世貶められた。
死没:元和2年4月17日(1616年6月1日)
「戦国三英傑」の一人で、人呼んで「東海一の弓取り」である。松平広忠の長男。幼名は竹千代。通称・二郎三郎。松平家は家康の祖父・清康の代に三河一国に覇を唱えて絶頂期を迎えるが、相次ぐ家中の内紛により弱体化が進み、家康は幼い頃から織田信秀・今川義元のもとで人質生活を送っていた。天文18年(1549)父・広忠が没すると若干8歳で家督を相続する。政情不安定の中、松平家は今川家の属国に組み入れられるが、義元は家康を自らの師の太原雪斎を教育係に付けて姪を娶らすなど一門部将として遇し、一千石程を支給したといわれる。
家康は永禄3年(1558)の三河寺部城攻めを初陣に今川家の先鋒として義元も誇る活躍をするが、桶狭間の戦いで後ろ盾の義元を亡くす。松平家所縁の三河大樹寺にて死を計るが、住職の登誉上人の言葉で思い留まり「厭離穢土欣求浄土」の旗印を掲げて、戦乱からの秩序の回復を目指す。今川家からの独立を果たし、義元の偏諱「元」を捨てて元康から家康へ改名。朝廷の許可を得て、三河守の官位と松平から徳川に姓を復する。織田信長に協力して足利将軍家の擁立や天下布武に協力。まず三河国内を統一し、東進して義元の遺子・氏真を降して遠江を攻略。そして西進を図る武田信玄・勝頼と戦うが、苦戦を強いられる。ようやく天正10年(1582)の信長の甲州征伐を機会に駿河を会得。義元と並ぶ三河・遠江・駿河3ヶ国の大守に成長した(約80万石)。
だが、それも束の間の話で、本能寺の変の明智光秀のクーデタにより信長・信忠の父子が急死。織田政権が瓦解すると、堺を観光していた家康は一転して窮地に追い込まれる。生涯最大の危機であったとされ、一時は京都へ斬り死にしようと図った程だが、酒井忠次や本多忠勝の説得で思い留まる。信長の仇討ちこそ中央の豊臣秀吉に先を越されたもの、なんとか帰国に成功し、北条氏直・上杉景勝との三つ巴の戦いを出し抜いて、空白地帯となった甲斐と南信濃を平定。約5ヶ国の大守に成長する(約140万石)。
本能寺から2年後の同12年(1584)信長の遺子・信雄を担いで、天下人を目指して驀進する秀吉と対決。中国地方から関東地方まで広範囲に渡って注目した「小牧長久手の戦い、小牧の役」である。北陸の佐々や姉小路、南国の紀州雑賀・根来衆と畠山、四国の長宗我部を味方に着けた信雄・家康の連合軍は善戦したが、秀吉方との動員力の差(石高でいえば、秀吉勢力は600万石を越えていたと思われる)の埋め合わせをするには至らず、戦況は膠着状態となる。結局、秀吉が武力討伐を諦めて熱心に和睦を呼びかけたため、家康らも矛を収めた。信長の同盟者だった経歴に加えてこの時の善戦は後々の財産となり、所領を削られることはなかった(信雄は伊賀と伊勢南半分を秀吉に譲った)。
家康は自身の東国における地位を利用して大名に帰属を呼びかけるなど秀吉の国内統一に協力し、総仕上げの小田原征伐には先鋒として活躍した。戦後、遠隔地へ追いやられるとともに東国安定への地位を見込まれ、関八州(うち六カ国が徳川領で約240万石。残る二国は属国)へ移された。政権最大の大大名となる。その後の奥州仕置・朝鮮出兵にも従い、朝鮮出兵では前田利家とともに名護屋で政務を執る。さらに秀吉は、甥の関白・秀次粛正に伴う政権弱体化の緩和策として、有力大名を政権中枢部に組み入れた。彼等は五大老と称され、家康はその筆頭である。秀吉死去直前には孫娘の千姫と秀吉の嫡男・秀頼の婚姻を命じられ、彼の義理祖父としての補佐を頼まれる。政務代行を行うことになったが、時代は風雲急を告げていた。
家康は「秀吉死亡」とともに自分の出番と悟り、秀頼を傀儡とし、政権を握ろうと動き始める。一方で家康を快く思わなかった、秀吉子飼いの吏将・石田三成も動き「天下分け目の関ヶ原」と称される大勝負になったが、家康は勝ちを収めた。アンチ派に勝った家康は3年後に「征夷大将軍」に就任。江戸に幕府を開き、豊臣政権に続く新たな新政権を自ら打ち立てた。家康は政権の基礎を整え、同19年(1614)大坂に残る豊臣家との戦いに臨む。これが「大坂の陣」であり、冬と夏の両陣で家康は結果として完勝し、徳川の天下を手堅いものとする。ここに家康の天下統一戦は成った。外交では朝鮮との関係を修復し(明の福建総督にも通商を求めたが進展無し)ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスとの貿易や東南アジア諸国との朱印船貿易を行なった(しかし、コーチシナ・カンボジア・パタニからは渡航日本人が行なう略奪などで抗議を受けた。これらの国の求めで家康は彼等の帰国を待って処罰しようとしたが、返って帰国してこない。日本町成立の背景ともいわれる)。
戦後、二代将軍・秀忠の名で天下を安定させるべく法令を発布。「一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「寺院諸法度」など。年号も平和な時代の出発を予言するが如く「慶長」から「元和」へ改元させた。これらの法令は「元和令」と呼ばれる。戦いから1年後の元和2年(1616)に死去。晩年は日々「南無阿弥陀仏」と書き綴った。死の直前、太政大臣の官位を贈られる(生前この官位に任じられた武将は平清盛・足利義満・豊臣秀吉に続いて四人目である)。最期まで西国大名の向背を案じていたが、遺志は次代が引き継ぎ、秀忠と三代将軍・家光の代で徳川の天下は安定。250余年の平和を実現した。家康も「東照大権現」の神号(日出づる国の神「日ノ本大権現」になる観測もあった)を賜って神となり、「神君家康公」などと崇められ、全国の東照社は五百を越えたといわれる。その終わりに伴う反動も大きく「古狸(狸親父)」として後世貶められた。
| 徳川家 |
徳川秀忠(江戸幕府第2代征夷大将軍)
生誕:天正7年7月7日(1579年7月30日)
死没:寛永9年1月24日(1632年3月14日)
徳川家康の三男として、遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。母は側室の西郷局。母の実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄・信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて、後に結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されて14歳で中納言に任官し、江戸中納言と呼ばれる。天正18年(1590年)、織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封された事により破談となる。文禄4年(1595年)には信長の姪で豊臣秀吉の養女の於江与(父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市)と結婚。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった。
近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。
そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている。律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言えるだろう。ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。
慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年(1605年)にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)の戦で、豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。結局、豊臣家は滅亡し、豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。その後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。
元和2年(1616年)に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し酒井忠世、土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、御三家を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。また、弟の松平忠輝・娘婿の松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。
元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)に紫衣事件を起こして朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。
徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重、徳川綱吉(第5代将軍)は孫。徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。
死没:寛永9年1月24日(1632年3月14日)
徳川家康の三男として、遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。母は側室の西郷局。母の実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。長兄・信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて、後に結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されて14歳で中納言に任官し、江戸中納言と呼ばれる。天正18年(1590年)、織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封された事により破談となる。文禄4年(1595年)には信長の姪で豊臣秀吉の養女の於江与(父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市)と結婚。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった。
近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。
そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている。律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言えるだろう。ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。
慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年(1605年)にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)の戦で、豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。結局、豊臣家は滅亡し、豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。その後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。
元和2年(1616年)に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し酒井忠世、土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、御三家を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。また、弟の松平忠輝・娘婿の松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。
元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)に紫衣事件を起こして朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。
徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重、徳川綱吉(第5代将軍)は孫。徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。
| 徳川家 |
徳川家光(江戸幕府第3代征夷大将軍)
生誕:慶長9年7月17日(1604年8月12日)
死没:慶安4年4月20日(1651年6月8日)
慶長9年(1604年)7月17日、江戸城に生まれる。徳川家の世継であった父秀忠には慶長6年に誕生した長丸という男子がいたが、既に早世していたため世子として扱われ、祖父家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、のちの春日局)が乳母となり、稲葉正勝、松平信綱らの小姓が付けられる。
征夷大将軍であった家康は駿府へ隠居して大御所となり、秀忠は慶長10年(1605年)に将軍職を継承する。幼少時の家光は病弱で、吃音(きつおん)があり容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟の国松(後の忠長)が誕生する。家光と忠長の間には世継争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父の家康が嫡庶の序を明確にし、家光の世継決定が確定したとされる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。
元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利、内藤清次、青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。元和3年には西の丸へ移り、元和4年には朝廷の勅使を迎えており、公式の場への出席が見られる。元和2年(1616年)の家康が死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官する。「家光」の名乗りは崇伝の選定で、当初は「家忠」とされたが、花山院祖の名乗りであったことから、「家光」が選ばれた。
元和9年(1623年)には死去した清次の穴埋めとして酒井忠世、酒井忠勝が年寄として付けられる。同年6月には父秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。
秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条行幸のために上洛するが、将軍家光に対して大御所秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣に昇格した。
寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。旗本を中心とする直轄軍の再編に着手し、同年5月には外様系大名を招集し、肥後熊本藩主加藤忠広の改易を命じている。老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。諸士法度の制定。寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。対外的には長崎貿易の利益独占目的から、貿易統制ならびにキリシタン弾圧を強化し、寛永14年(1637年)の島原の乱を経て寛永18年(1641年)までに鎖国体制を完成させた。これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(のちの将軍家綱)が誕生する。
寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉は起こるが、幕府の支配体制が揺らぐことはなく、正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、田畑永代売買禁止令を発布した(かつては慶安御触書も発布されたといわれていたが、現在は偽文書である可能性が有力となっている)。慶安3年(1650年)には病気から諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去する。享年48歳。家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次らが殉死している。
遺骸は遺言により東叡寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。
死没:慶安4年4月20日(1651年6月8日)
慶長9年(1604年)7月17日、江戸城に生まれる。徳川家の世継であった父秀忠には慶長6年に誕生した長丸という男子がいたが、既に早世していたため世子として扱われ、祖父家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、のちの春日局)が乳母となり、稲葉正勝、松平信綱らの小姓が付けられる。
征夷大将軍であった家康は駿府へ隠居して大御所となり、秀忠は慶長10年(1605年)に将軍職を継承する。幼少時の家光は病弱で、吃音(きつおん)があり容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟の国松(後の忠長)が誕生する。家光と忠長の間には世継争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父の家康が嫡庶の序を明確にし、家光の世継決定が確定したとされる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。
元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利、内藤清次、青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。元和3年には西の丸へ移り、元和4年には朝廷の勅使を迎えており、公式の場への出席が見られる。元和2年(1616年)の家康が死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官する。「家光」の名乗りは崇伝の選定で、当初は「家忠」とされたが、花山院祖の名乗りであったことから、「家光」が選ばれた。
元和9年(1623年)には死去した清次の穴埋めとして酒井忠世、酒井忠勝が年寄として付けられる。同年6月には父秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。
秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条行幸のために上洛するが、将軍家光に対して大御所秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣に昇格した。
寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。旗本を中心とする直轄軍の再編に着手し、同年5月には外様系大名を招集し、肥後熊本藩主加藤忠広の改易を命じている。老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。諸士法度の制定。寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。対外的には長崎貿易の利益独占目的から、貿易統制ならびにキリシタン弾圧を強化し、寛永14年(1637年)の島原の乱を経て寛永18年(1641年)までに鎖国体制を完成させた。これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(のちの将軍家綱)が誕生する。
寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉は起こるが、幕府の支配体制が揺らぐことはなく、正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、田畑永代売買禁止令を発布した(かつては慶安御触書も発布されたといわれていたが、現在は偽文書である可能性が有力となっている)。慶安3年(1650年)には病気から諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去する。享年48歳。家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次らが殉死している。
遺骸は遺言により東叡寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。
| 徳川家 |
徳川家綱(江戸幕府第4代征夷大将軍)
生誕:寛永18年8月3日(1641年9月7日)
死没:延宝8年5月8日(1680年6月4日)
江戸城本丸に生まれる。父である家光は、弟忠長との間で世継争いがあったとも言われ、早くから家綱を自らの後継ぎに決めていたという。正保元年(1644年)12月、名を「家綱」と改め、正保2年4月に元服。
慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移り、翌1651年(慶安4年)家光が48歳で死去すると、家綱は8月18日(新暦10月2日)、江戸城において将軍宣下を受け、内大臣に序せられる。12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後の将軍宣下は京都ではなく江戸で行われることとなる。
将軍家を継承したときわずか数え11歳に過ぎなかったため、家光死去の直後に浪人の騒擾未遂事件(慶安事件)が起こるなど政情不安に見舞われたが、叔父保科正之や家光時代からの大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋らの補佐によりこの危難を乗り越え、29年間の安定政権をみた。家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められ、殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から、文治政治への政策切り替えが行われた。
万治2年(1659年)4月には左大臣に任じられるのを辞退している。寛文4年には1万石以上の大名に対する領地朱印状を、さらに翌年には公家や寺社を対象とした領地朱印状を交付。
家綱は生まれつき体が弱く、しばしば病気にかかっていた為、晩年には幕府財政の悪化、大老酒井忠清の専制を許し、幕府の勢威のかげりの端緒を招いた。生来病弱で40歳で没するが、子はなく、大老酒井忠清は源実朝の没後にならい祖父・秀忠の兄・結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしていたとも言われるが、堀田正俊の勧めにより、延宝8年5月、末弟の綱吉を養子に迎え、将軍後嗣となった。墓所は上野寛永寺、法名は厳有院。
また、政務を全て重臣任せにして、自らは「左様せい」で決裁していたことから、「さようせい様」という異名が付けられた。
なお、家光の2男で家綱の長弟・綱重は甲府の25万石の藩主となり家綱の次の将軍候補と目されたが、1678年に没した。
6代将軍・徳川家宣と館林藩主・松平清武の伯父で7代将軍・徳川家継の大伯父にあたる。弟・綱吉の正室・鷹司信子と側室の瑞春院は義妹。
死没:延宝8年5月8日(1680年6月4日)
江戸城本丸に生まれる。父である家光は、弟忠長との間で世継争いがあったとも言われ、早くから家綱を自らの後継ぎに決めていたという。正保元年(1644年)12月、名を「家綱」と改め、正保2年4月に元服。
慶安3年(1650年)9月に西の丸へ移り、翌1651年(慶安4年)家光が48歳で死去すると、家綱は8月18日(新暦10月2日)、江戸城において将軍宣下を受け、内大臣に序せられる。12月には本丸へ移る。この前例を受け、家綱以後の将軍宣下は京都ではなく江戸で行われることとなる。
将軍家を継承したときわずか数え11歳に過ぎなかったため、家光死去の直後に浪人の騒擾未遂事件(慶安事件)が起こるなど政情不安に見舞われたが、叔父保科正之や家光時代からの大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋らの補佐によりこの危難を乗り越え、29年間の安定政権をみた。家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められ、殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から、文治政治への政策切り替えが行われた。
万治2年(1659年)4月には左大臣に任じられるのを辞退している。寛文4年には1万石以上の大名に対する領地朱印状を、さらに翌年には公家や寺社を対象とした領地朱印状を交付。
家綱は生まれつき体が弱く、しばしば病気にかかっていた為、晩年には幕府財政の悪化、大老酒井忠清の専制を許し、幕府の勢威のかげりの端緒を招いた。生来病弱で40歳で没するが、子はなく、大老酒井忠清は源実朝の没後にならい祖父・秀忠の兄・結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしていたとも言われるが、堀田正俊の勧めにより、延宝8年5月、末弟の綱吉を養子に迎え、将軍後嗣となった。墓所は上野寛永寺、法名は厳有院。
また、政務を全て重臣任せにして、自らは「左様せい」で決裁していたことから、「さようせい様」という異名が付けられた。
なお、家光の2男で家綱の長弟・綱重は甲府の25万石の藩主となり家綱の次の将軍候補と目されたが、1678年に没した。
6代将軍・徳川家宣と館林藩主・松平清武の伯父で7代将軍・徳川家継の大伯父にあたる。弟・綱吉の正室・鷹司信子と側室の瑞春院は義妹。
| 徳川家 |
徳川綱吉(江戸幕府第5代征夷大将軍)
生誕:正保3年1月8日(1646年2月23日)
死没:宝永6年1月10日(1709年2月19日)
江戸城に生まれる。幕府創業に尽力した2代将軍・徳川秀忠は祖父。初代将軍・徳川家康は曾祖父。慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し、家臣団を付けられる。同月には将軍家光が死去し、8月に兄の家綱が将軍宣下を受け、綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任。将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改め、松平を名乗る。
明暦3年(1651年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失し、9月には神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなり、所領は25万石となる(館林徳川家)。が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される。1670年に牧野成貞を館林藩家老3,000石に抜擢する。
延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に世嗣がなかったことから、その養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、5月、家綱が40歳で死去すると、将軍宣下を受け、内大臣となる。
家綱時代の大老酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。その後、忠清は病死するが、酒井家を改易にしたい綱吉は、大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたという。しかし証拠は出せず、結局、酒井忠清の弟酒井忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまった。
綱吉は大老堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後国高田藩の継承問題を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、「そうせい様」と陰口された家綱時代に没落した将軍権威の向上に努めた。また幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されている。また外様大名からも一部幕閣への登用が見られる。しかし一方で将軍権威向上のためにも大名や旗本の改易を数多くおこない、山内豊明・喜多見重政・坂本重治はじめ気まぐれに取り立てて、気に入らなくなると改易するような理不尽なケースも多かった。
また戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。これは父徳川家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は、林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義し、さらに学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。この儒学の影響で歴代将軍の中でももっとも尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査のうえ、修復が必要なものをリストアップして、巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家達の所領についても概ね綱吉時代に倍増している。またのちに赤穂藩主浅野内匠頭が大名としては異例の即日切腹にされたのも朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようだ。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳州・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代、儒学が隆盛を極めた。
綱吉の治世の前半は基本的には善政として天和の治と称えられている。
しかしながら、1684年(貞享元年)堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず、側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて母桂昌院の政治への介入を許した。母桂昌院とゆかりの深い本荘家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったという。
この頃から後世に“悪政”といわれる政治を次々とおこなうようになった。有名な生類憐みの令も、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとする説がある(隆光と生類憐みの令の関係を否定する説もある。なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で、再考がされつつある)。また大奥の奢侈を許して幕府の財政を悪化させ、勘定奉行荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実行したが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたこともありかえって経済を混乱させている。そもそも後期の綱吉に前期のような政治への積極性はほとんど見られなくなった。
嫡男の徳松が死去した後の将軍後継問題では、娘の鶴姫を嫁がせていた御三家の紀州徳川家の徳川綱教が徳川光圀の反対の中、候補に上がるが綱教は死去し、6代将軍は甥で甲斐国甲府藩の徳川家宣(綱豊)に決定する。1709年に死去、享年63。家宣が将軍になると「生類憐みの令」はすぐに廃止されたという。しかし殺生である鷹狩りを実施することはなく、復活は徳川吉宗が8代将軍になってからのことである。ちなみに吉宗は天和の治を行った綱吉に対して敬愛の念を抱き、吉宗の享保の改革の中にもその影響が見られると言われている。7代将軍・徳川家継の大叔父で松平清武は甥に当たる。
柳沢吉保の側室染子は、綱吉からの拝領妻であるが、その妻の出産した男子である柳沢吉里は、綱吉の実子であるともいう。事実であれば、跡継ぎの男子に悩んだ綱吉としては、なんとも皮肉なことになってしまったことになる。綱吉は、柳沢家に、特に松平姓を与えて、連枝の待遇としたが、これがその事情を雄弁に物語っているという指摘もある。
墓所は東京都台東区上野桜木一丁目の寛永寺。
死没:宝永6年1月10日(1709年2月19日)
江戸城に生まれる。幕府創業に尽力した2代将軍・徳川秀忠は祖父。初代将軍・徳川家康は曾祖父。慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し、家臣団を付けられる。同月には将軍家光が死去し、8月に兄の家綱が将軍宣下を受け、綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任。将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改め、松平を名乗る。
明暦3年(1651年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失し、9月には神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなり、所領は25万石となる(館林徳川家)。が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される。1670年に牧野成貞を館林藩家老3,000石に抜擢する。
延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に世嗣がなかったことから、その養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、5月、家綱が40歳で死去すると、将軍宣下を受け、内大臣となる。
家綱時代の大老酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。その後、忠清は病死するが、酒井家を改易にしたい綱吉は、大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたという。しかし証拠は出せず、結局、酒井忠清の弟酒井忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまった。
綱吉は大老堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後国高田藩の継承問題を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、「そうせい様」と陰口された家綱時代に没落した将軍権威の向上に努めた。また幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されている。また外様大名からも一部幕閣への登用が見られる。しかし一方で将軍権威向上のためにも大名や旗本の改易を数多くおこない、山内豊明・喜多見重政・坂本重治はじめ気まぐれに取り立てて、気に入らなくなると改易するような理不尽なケースも多かった。
また戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。これは父徳川家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は、林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義し、さらに学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。この儒学の影響で歴代将軍の中でももっとも尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査のうえ、修復が必要なものをリストアップして、巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家達の所領についても概ね綱吉時代に倍増している。またのちに赤穂藩主浅野内匠頭が大名としては異例の即日切腹にされたのも朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようだ。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳州・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代、儒学が隆盛を極めた。
綱吉の治世の前半は基本的には善政として天和の治と称えられている。
しかしながら、1684年(貞享元年)堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず、側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて母桂昌院の政治への介入を許した。母桂昌院とゆかりの深い本荘家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったという。
この頃から後世に“悪政”といわれる政治を次々とおこなうようになった。有名な生類憐みの令も、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとする説がある(隆光と生類憐みの令の関係を否定する説もある。なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で、再考がされつつある)。また大奥の奢侈を許して幕府の財政を悪化させ、勘定奉行荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実行したが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたこともありかえって経済を混乱させている。そもそも後期の綱吉に前期のような政治への積極性はほとんど見られなくなった。
嫡男の徳松が死去した後の将軍後継問題では、娘の鶴姫を嫁がせていた御三家の紀州徳川家の徳川綱教が徳川光圀の反対の中、候補に上がるが綱教は死去し、6代将軍は甥で甲斐国甲府藩の徳川家宣(綱豊)に決定する。1709年に死去、享年63。家宣が将軍になると「生類憐みの令」はすぐに廃止されたという。しかし殺生である鷹狩りを実施することはなく、復活は徳川吉宗が8代将軍になってからのことである。ちなみに吉宗は天和の治を行った綱吉に対して敬愛の念を抱き、吉宗の享保の改革の中にもその影響が見られると言われている。7代将軍・徳川家継の大叔父で松平清武は甥に当たる。
柳沢吉保の側室染子は、綱吉からの拝領妻であるが、その妻の出産した男子である柳沢吉里は、綱吉の実子であるともいう。事実であれば、跡継ぎの男子に悩んだ綱吉としては、なんとも皮肉なことになってしまったことになる。綱吉は、柳沢家に、特に松平姓を与えて、連枝の待遇としたが、これがその事情を雄弁に物語っているという指摘もある。
墓所は東京都台東区上野桜木一丁目の寛永寺。
| 徳川家 |
徳川家宣(江戸幕府第6代征夷大将軍)
生誕:寛文2年4月25日(1662年6月11日)
死没:正徳2年10月14日(1712年11月12日)
寛文2年(1662年)4月25日、徳川綱重の長男として江戸根津邸にて生まれる。父が正室を娶る直前の19歳の時に身分の低い26歳の女中に生ませた子であったため、世間をはばかって家臣の新見正信に預けられ、新見左近と名乗った。
9歳のとき他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され、元服して伯父である4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて「綱豊」と名乗り、延宝6年(1678年)の父の死後、17歳で家督を継承し、祖母・順性院(祖父・家光の側室で父・綱重の生母)に4代将軍・の次の将軍になるために育てられた。
家綱に男子がなかったことから、延宝8年(1680年)、綱重の弟に当たる上野館林藩主・徳川綱吉とともに第5代将軍の有力候補であったが、堀田正俊が家光に血が近い綱吉を強力に将軍に推したため、綱豊の将軍就任は採用されなかった。
綱吉にも世嗣がいなかったが、綱吉娘婿の徳川綱教も後継候補だったため、綱教の死後、将軍世嗣として「家宣」と改名し江戸城西の丸に入ったのは宝永元年(1704年)12月5日、家宣が43歳の時だった。
宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると悪評の高かった生類憐れみの令や酒税を廃止するなど気概を示したため、庶民からの人気と期待は高かった。柳沢吉保を免職し、間部詮房・新井白石を登用して文治政治を推進し、荻原重秀に命じて財政改革を試みたが、在職3年後の正徳2年(1712年)10月14日に死去。享年51。後を子の徳川家継が継いだ。
家宣と次代将軍・徳川家継の治世を、併せて正徳の治(正徳の政治)という。法名:文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士。墓所:東京都港区の三縁山広度院増上寺。
死没:正徳2年10月14日(1712年11月12日)
寛文2年(1662年)4月25日、徳川綱重の長男として江戸根津邸にて生まれる。父が正室を娶る直前の19歳の時に身分の低い26歳の女中に生ませた子であったため、世間をはばかって家臣の新見正信に預けられ、新見左近と名乗った。
9歳のとき他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され、元服して伯父である4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて「綱豊」と名乗り、延宝6年(1678年)の父の死後、17歳で家督を継承し、祖母・順性院(祖父・家光の側室で父・綱重の生母)に4代将軍・の次の将軍になるために育てられた。
家綱に男子がなかったことから、延宝8年(1680年)、綱重の弟に当たる上野館林藩主・徳川綱吉とともに第5代将軍の有力候補であったが、堀田正俊が家光に血が近い綱吉を強力に将軍に推したため、綱豊の将軍就任は採用されなかった。
綱吉にも世嗣がいなかったが、綱吉娘婿の徳川綱教も後継候補だったため、綱教の死後、将軍世嗣として「家宣」と改名し江戸城西の丸に入ったのは宝永元年(1704年)12月5日、家宣が43歳の時だった。
宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると悪評の高かった生類憐れみの令や酒税を廃止するなど気概を示したため、庶民からの人気と期待は高かった。柳沢吉保を免職し、間部詮房・新井白石を登用して文治政治を推進し、荻原重秀に命じて財政改革を試みたが、在職3年後の正徳2年(1712年)10月14日に死去。享年51。後を子の徳川家継が継いだ。
家宣と次代将軍・徳川家継の治世を、併せて正徳の治(正徳の政治)という。法名:文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士。墓所:東京都港区の三縁山広度院増上寺。
| 徳川家 |
徳川家継(江戸幕府第7代征夷大将軍)
生誕:宝永6年7月3日(1709年8月8日)
死没:正徳6年4月30日(1716年6月19日)
3代将軍・家光と順性院(祖父・綱重の母で曾祖母)の曾孫。4代将軍・家綱と5代将軍・綱吉は大伯父(大叔父)。館林藩主・松平清武は叔父(父・家宣の弟)。1709年7月3日、江戸城に生まれる。この頃二人の兄が既に早世しており、すぐ上の兄・大五郎も家継が2歳の時に夭折したが、家継だけが成長を続けた。家継は母、月光院に似て聡明な子供であり、学問好きだったといわれている。
家継は家宣の死後、1713年、わずか5歳で将軍宣下をうけた。家継は間部詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の治を続行したが、1716年4月、風邪が悪化してわずか8歳で死亡した。この間幕政は家継の母月光院お気に入りの側用人間部詮房と顧問格であった新井白石がリードした。家継は、学問に励み、間部詮房に、厳しい教育を受けていたといわれる。家継がわがままを言ったりぐずったりした際に、近くの者が「越前殿(詮房)が参られます」と言うと、すぐおとなしくなったと言う。
家継は、側用人の詮房から「上様、何事もこの詮房にお任せ下さい」という言葉を受け、詮房や白石の路線をそのままに政治を行った。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人であった月光院と独身の詮房の間にはスキャンダルが絶えず、大奥を舞台とした江島生島事件が起こるなどした。
家継の治世3年間には、詮房、白石による家宣時代からの正徳の治が行われたが、2人とも他の老中たちに押されぎみだったので、十分な成果は上がらなかった。
死没:正徳6年4月30日(1716年6月19日)
3代将軍・家光と順性院(祖父・綱重の母で曾祖母)の曾孫。4代将軍・家綱と5代将軍・綱吉は大伯父(大叔父)。館林藩主・松平清武は叔父(父・家宣の弟)。1709年7月3日、江戸城に生まれる。この頃二人の兄が既に早世しており、すぐ上の兄・大五郎も家継が2歳の時に夭折したが、家継だけが成長を続けた。家継は母、月光院に似て聡明な子供であり、学問好きだったといわれている。
家継は家宣の死後、1713年、わずか5歳で将軍宣下をうけた。家継は間部詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の治を続行したが、1716年4月、風邪が悪化してわずか8歳で死亡した。この間幕政は家継の母月光院お気に入りの側用人間部詮房と顧問格であった新井白石がリードした。家継は、学問に励み、間部詮房に、厳しい教育を受けていたといわれる。家継がわがままを言ったりぐずったりした際に、近くの者が「越前殿(詮房)が参られます」と言うと、すぐおとなしくなったと言う。
家継は、側用人の詮房から「上様、何事もこの詮房にお任せ下さい」という言葉を受け、詮房や白石の路線をそのままに政治を行った。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人であった月光院と独身の詮房の間にはスキャンダルが絶えず、大奥を舞台とした江島生島事件が起こるなどした。
家継の治世3年間には、詮房、白石による家宣時代からの正徳の治が行われたが、2人とも他の老中たちに押されぎみだったので、十分な成果は上がらなかった。
| 徳川家 |
徳川吉宗(江戸幕府第8代征夷大将軍)
生誕:貞享元年10月21日(1684年11月27日)
死没:寛延4年6月20日(1751年7月12日)
貞享元年(1684年)10月21日、徳川御三家の紀州藩2代藩主・徳川光貞の4男として生まれる。母は巨勢六左衛門利清の娘・浄円院(於由利の方)。母の実家は、紀州の地主で、古代の名族・巨勢氏の末裔を称する素封家であった。しかし、紀州藩主の母・側室の実家としては、身分が違いすぎた(百姓の娘であったとも云われる)。和歌山城の大奥の湯殿番であった於由利の方は、徳川光貞の目に止まり、湯殿において、手がついたという伝説は有名である。母の身分に問題があったためか、幼年は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られた。
元禄10年(1697年)、14歳で第5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、越前国丹生郡に3万石を賜り、葛野藩主となる。父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄達に対し頼方は次の間に控えていたのだが、老中・大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が適ったものである。なお、葛野藩には実際には家臣を送って統治するだけで、吉宗は和歌山城下にとどまっていたといわれている。
宝永2年(1705年)に長兄・徳川綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、次兄の徳川頼職が後を継ぐ。しかし同年のうちに父・光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州藩第5代藩主に就任する。藩主就任時には将軍徳川綱吉から一字を貰い吉宗と改名。
宝永3年(1706年)に二品親王伏見宮貞致王女真宮理子女王を簾中(正室)に迎えているが、翌年には死去。宝永7年(1710年)4月には紀州入りした吉宗は藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建をはかる。二人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも務める。紀州藩主家時代には女中との間に嫡男長福(家重)、次男小次郎(田安宗武)が生まれており、将軍在任中に起こった天一坊事件の遠因にもなった。
享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、徳川将軍家の血筋(徳川家康の三男・徳川秀忠の嫡流)が途絶えた後を受け、御三家の中から家康に一番血統が近いという理由で、御三家筆頭の尾張家を抑える形で第8代将軍に就任したと一般的には説明されている。
吉宗は将軍就任にあたって紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、第5代将軍・徳川綱吉の館林藩、第6代将軍・徳川家宣の甲府藩は、将軍の継嗣として、江戸城に呼び戻されると廃藩にされ、その藩士は幕臣となった。だが吉宗は、御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄弟の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士の内から大禄でない者を20数名選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。こうした措置が、側近政治に怯える譜代大名や旗本から、好感を持って迎えられた。また紀州藩が、御三卿と共に吉宗の血筋の藩塀としての役割を担った。
また紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟のスピードアップのため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、綱吉時代に禁止されていた鷹狩の復活、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁といった改革も行う。第4代将軍・徳川家綱時代から続いていた学問を奨励する文治政治を見直し、武芸を奨励する武断政治を志した。
延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かったため、死去するまでの6年間は大御所として実権を握り続けた。なおこのとき、暗愚な家重より聡明な庶子宗武や宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。
寛延4年(1751年)6月20日に死去。享年68。
死没:寛延4年6月20日(1751年7月12日)
貞享元年(1684年)10月21日、徳川御三家の紀州藩2代藩主・徳川光貞の4男として生まれる。母は巨勢六左衛門利清の娘・浄円院(於由利の方)。母の実家は、紀州の地主で、古代の名族・巨勢氏の末裔を称する素封家であった。しかし、紀州藩主の母・側室の実家としては、身分が違いすぎた(百姓の娘であったとも云われる)。和歌山城の大奥の湯殿番であった於由利の方は、徳川光貞の目に止まり、湯殿において、手がついたという伝説は有名である。母の身分に問題があったためか、幼年は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られた。
元禄10年(1697年)、14歳で第5代将軍・徳川綱吉に拝謁し、越前国丹生郡に3万石を賜り、葛野藩主となる。父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄達に対し頼方は次の間に控えていたのだが、老中・大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が適ったものである。なお、葛野藩には実際には家臣を送って統治するだけで、吉宗は和歌山城下にとどまっていたといわれている。
宝永2年(1705年)に長兄・徳川綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、次兄の徳川頼職が後を継ぐ。しかし同年のうちに父・光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州藩第5代藩主に就任する。藩主就任時には将軍徳川綱吉から一字を貰い吉宗と改名。
宝永3年(1706年)に二品親王伏見宮貞致王女真宮理子女王を簾中(正室)に迎えているが、翌年には死去。宝永7年(1710年)4月には紀州入りした吉宗は藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建をはかる。二人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも務める。紀州藩主家時代には女中との間に嫡男長福(家重)、次男小次郎(田安宗武)が生まれており、将軍在任中に起こった天一坊事件の遠因にもなった。
享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、徳川将軍家の血筋(徳川家康の三男・徳川秀忠の嫡流)が途絶えた後を受け、御三家の中から家康に一番血統が近いという理由で、御三家筆頭の尾張家を抑える形で第8代将軍に就任したと一般的には説明されている。
吉宗は将軍就任にあたって紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、第5代将軍・徳川綱吉の館林藩、第6代将軍・徳川家宣の甲府藩は、将軍の継嗣として、江戸城に呼び戻されると廃藩にされ、その藩士は幕臣となった。だが吉宗は、御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄弟の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士の内から大禄でない者を20数名選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。こうした措置が、側近政治に怯える譜代大名や旗本から、好感を持って迎えられた。また紀州藩が、御三卿と共に吉宗の血筋の藩塀としての役割を担った。
また紀州藩主としての藩政の経験を活かし、水野忠之を老中に任命して財政再建を始める。新田開発の推進、足高の制の制定等の官僚制度改革、そしてその一環ともいえる大岡忠相の登用、また訴訟のスピードアップのため公事方御定書を制定しての司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革のひとつである享保の改革を行った。また、大奥の整備、綱吉時代に禁止されていた鷹狩の復活、目安箱の設置による庶民の意見を政治へ反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁といった改革も行う。第4代将軍・徳川家綱時代から続いていた学問を奨励する文治政治を見直し、武芸を奨励する武断政治を志した。
延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・家重に譲るが、家重は言語不明瞭で政務が執れるような状態では無かったため、死去するまでの6年間は大御所として実権を握り続けた。なおこのとき、暗愚な家重より聡明な庶子宗武や宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。
寛延4年(1751年)6月20日に死去。享年68。
| 徳川家 |
徳川家重(江戸幕府第9代征夷大将軍)
生誕:正徳元年12月21日(1712年1月28日)
死没:宝暦11年6月12日(1761年7月13日)
家重は生来虚弱の上、脳性麻痺とも推測されている障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠もりがちで酒色にふけって健康を害した。このため、文武に長けた次弟の田安宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、父・吉宗や幕閣をさんざんに悩ましたが、結局、長子相続ということで、延享2年11月2日(1745年11月24日)に将軍職を譲られた。しかし宝暦元年(1751年)までは、吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重への将軍職継承はその実子・家治が非常に聡明であった事も背景にあった。
家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度を確立する等、幾つかの独自の経済政策を行った。宝暦5年(1755年)の凶作をきっかけに一揆が続発し、社会不安が増していった。また、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることが出来たため忠光を重用し、側用人制度を復活させる。一般に悪徳政治家として評価されることの多い田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。実際には家重の時代には田沼意次は大した力を持たず、大岡忠光も特に権勢に奢って失政・暴政を行うことは無かったとされる。宝暦10年(1760年)、大岡忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男・家治に将軍職を譲って大御所と称し、翌年排尿障害のため没した。
死没:宝暦11年6月12日(1761年7月13日)
家重は生来虚弱の上、脳性麻痺とも推測されている障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠もりがちで酒色にふけって健康を害した。このため、文武に長けた次弟の田安宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、父・吉宗や幕閣をさんざんに悩ましたが、結局、長子相続ということで、延享2年11月2日(1745年11月24日)に将軍職を譲られた。しかし宝暦元年(1751年)までは、吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重への将軍職継承はその実子・家治が非常に聡明であった事も背景にあった。
家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度を確立する等、幾つかの独自の経済政策を行った。宝暦5年(1755年)の凶作をきっかけに一揆が続発し、社会不安が増していった。また、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることが出来たため忠光を重用し、側用人制度を復活させる。一般に悪徳政治家として評価されることの多い田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。実際には家重の時代には田沼意次は大した力を持たず、大岡忠光も特に権勢に奢って失政・暴政を行うことは無かったとされる。宝暦10年(1760年)、大岡忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男・家治に将軍職を譲って大御所と称し、翌年排尿障害のため没した。
| 徳川家 |
徳川家治(江戸幕府第10代征夷大将軍)
生誕:元文2年5月22日(1737年6月20日)
死没:天明6年8月25日(1786年9月17日)
江戸城に生まれる。幼少時よりその聡明さから、8代将軍であった祖父の吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。家治は学芸の才能に恵まれ書画を得意とし、宝暦10年(1760年)に将軍職を継承し、父の家重の遺言に従い田沼意次を側用人に重用し、老中の松平武元らと共に政治に励んでいたが、意次が老中になると、政治を意次にまかせ好きな将棋などの趣味に没頭することが多く、結局祖父の期待には報えなかった。
意次は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画するなどを実施する。安永8年(1779年)、家治の世子家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍家斉)を自らの養子とした。
天明6年(1786年)のその死は反田沼派によって直ちには公表されず、田沼が失脚した後の9月8日(新暦9月29日)になって発葬された。また家治は、意次の差し出した薬を飲んだ直後に危篤に陥り死去した。無論、家治を暗殺しても意次に益するところは何一つ無いはずなのだが、それでも意次が毒を盛ったのではないかという噂が流れ、反田沼派の策謀により田沼意次は失脚した。
墓所は東京都台東区上野の寛永寺。
死没:天明6年8月25日(1786年9月17日)
江戸城に生まれる。幼少時よりその聡明さから、8代将軍であった祖父の吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。家治は学芸の才能に恵まれ書画を得意とし、宝暦10年(1760年)に将軍職を継承し、父の家重の遺言に従い田沼意次を側用人に重用し、老中の松平武元らと共に政治に励んでいたが、意次が老中になると、政治を意次にまかせ好きな将棋などの趣味に没頭することが多く、結局祖父の期待には報えなかった。
意次は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画するなどを実施する。安永8年(1779年)、家治の世子家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主徳川治済の長男豊千代(後の第11代将軍家斉)を自らの養子とした。
天明6年(1786年)のその死は反田沼派によって直ちには公表されず、田沼が失脚した後の9月8日(新暦9月29日)になって発葬された。また家治は、意次の差し出した薬を飲んだ直後に危篤に陥り死去した。無論、家治を暗殺しても意次に益するところは何一つ無いはずなのだが、それでも意次が毒を盛ったのではないかという噂が流れ、反田沼派の策謀により田沼意次は失脚した。
墓所は東京都台東区上野の寛永寺。
| 徳川家 |